Masukやっとこの日が来た。
それなのに、花音は終始苛立っていた。
今、花音は澪から奪ったドレスを着ている。澪のためにオーダーメイドされたドレスを直して身につけているのだ。
サイズは直したが、もともと細身の仕立てのため、花音が着るときつい。それだけで、澪がどれほど細いかがわかってしまう。
しかも、肩のラインがずれてしまい、花音の体型をさらに太く見せている。ドレスの持つ美しく上品なデザインをまったく引き立たせていない。
会場にはたくさんの花が飾られていて、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
花音が祭壇に立つと、招待客の話し声が耳に入った。
「あのドレス、すごく形はいいのに、彼女が着るとなんか変じゃない?」
「なんか……人と服があってない感じしない? どこかから借りてきたみたい」
「ドレスのデザインがシックで上品すぎて、花嫁にあってないよね」
花音は祭壇の上で満面の笑みをたたえていた。しかし、こめかみはひきつり、
人事担当から昇進の話を聞き、澪の胸に喜びと不安が押し寄せてきた。 ゆっくりと歩いてオフィスに戻った。 自席に座り、机の上に目を落とす。蛍光灯の光が、自分の影を落としていた。 これまで、コラボ第二弾でプロジェクトリーダーを任された経験がある。おそらく、その経験が評価され、今回の昇進につながったのだろう。 この会社でキャリアを積むことは、澪にとってよいことだ。将来自分でブランドを立ち上げる夢を叶えるときに、きっと役に立つだろう。 新規拠点の立ち上げに携われば、これまで知らなかったことを学べるだろう。人脈も、今より広がるはずだ。 けれど――。 澪はマウスに伸ばしかけた手を止めた。 朝、「いってきます」と言い、「いってらっしゃい」と返される。 たった一度きりの、あの応酬。 あれを日常にしたいと思っている自分がいる。 いや、そんなことは無理だ。仁はもうすぐあの人と婚約するのだから、澪が朝、「いってらっしゃい」と声をかけることなどない。 それなのに、日常にしたいと思ってしまう。手に入るはずのない日常なのに、こんなに自分はわがままだったのかと思う。 東京から離れてしまうと、仁とすぐに会えなくなる。 そう考えて、澪は首を振った。 今までだって、それほど頻繁に会えていたわけではない。仁が引っ越してからは、十七年間も会えていなかった。それが今は、取引先として打ち合わせをする名目で会えているだけだ。もしその機会がなくなれば、以前のように会うことはないだろう。 澪はぎゅっとまぶたを閉じた。 大阪の新拠点の立ち上げで、澪を頼りにしてくれている人たちがいる。その期待に応えたい。そして、自分自身の力をもっと高めていきたい。 三年。 大阪で三年間、仕事に取り組めば、東京へ戻ることができる。そのときには、今よりもひとまわりもふたまわりも成長しているはずだ。 回答の期限は二週間後だと言われた。 まだ時間はある。 誰かのために決めるのではなく、自分自
ふわりとコーヒーの香りが鼻腔を満たし、目が覚めた。ベッドの中で伸びをすると、体が軽かった。このところ、睡眠不足が続いていた。けれど、昨日はしっかり眠れたようだ。それも、仁が家にいてくれたからだろう。 寝室のドアは、昨夜閉めたときのまま閉まっていた。 そっと開けて、リビングを覗く。ソファの上に、貸した毛布がきちんとたたんで置かれていた。クッションの位置まで元通りになっている。 寝室を出ると、コーヒーの香りが強くなった。仁がキッチンに立って、かちゃかちゃと音を立てていた。「おはよ」 仁の背後から声をかけると、彼が振り向いた。「やっと起きたか。体はゆっくり休めたか?」 仁の背後からキッチンを覗くと、彼は朝食を作ってくれていたようだ。「うん。ありがと。よく眠れたよ。仁は?」「俺もちゃんと寝れた」「本当? ソファじゃ寝にくかったでしょ?」 仁は一瞬口を引き結んだが、すぐに答えた。「ああ、大丈夫だった」 その割には、顔色がよくない。「ちゃんと寝れてないんじゃん……」 仁は目を逸らしたが、すぐに澪に向き直った。「ほら、飯できてるぞ。早く食わないと、仕事に遅れるだろ」 仁は「ほら、行った行った」とばかりに、澪の背中を押して洗面所へ追いやった。 洗面所で顔を洗い、Onlyéで肌を整える。たったそれだけで、肌にハリが出て、潤いも増した。これがOnlyé for youならどれほどいいか。考えただけでも肌がよろこびそうだ。販売が開始されたら、自分のものを頼もうと思っているのは仁には内緒だ。 リビングに戻ると、テーブルの上にコーヒーとワンプレートの朝食が並べられていた。プレートにはロールパンとサラダ、オムレツが乗っている。「簡単なものしか作れなかったけど」 仁はほおを指先でかきながら、言った。昨日の夜に澪の家へ来て、しっかり眠れていないはずなのに、澪のためにここまでしてくれる。そのことを思うと、胸
写真を持つ手が震える。足に力が入らず、その場にへたり込みそうだ。 ポストに手をかけ、必死に立っている。 もう放っておいてほしいのに、なぜこれほどまでに自分を痛めつけようとするのだろうか。 喉が締め付けられたように苦しい。呼吸が浅くて、うまく息が吸えない。 澪はぎゅうっと胸元を掴んだ。 ――助けて! そう叫びたくても、声が出ない。 こんなとき、誰にも頼れなくて不安になる。 そうだ、仁に連絡をしよう。 そう考えてスマホを取り出したが、手が震えて画面すら開けられない。 いや、仁に連絡して頼る前に、自分でできることがある。 写真をそっとハンカチに包んで、交番へ向かった。 一歩一歩踏み出すが、膝が震えている。踏ん張っていないと転んでしまいそうだった。 後ろを振り返りたくなる。誰かがついてきているような気がして、何度も足が止まりかけた。 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん走って逃げてしまう。 澪は奥歯を強く噛みしめ、まっすぐ前を向いた。首筋に、じわりと汗がにじむ。 それほど遠くない距離なのに、交番に着いたときには息があがっていた。「すみません、相談したいことがあるのですが……」「どうぞ」 警察官に椅子をすすめられ、腰を下ろす。膝がガクガクと震えている。「どうされましたか?」 女性の警察官がにっこりと笑いかけてくれた。それだけで、体の力が抜けた。よほど力んでいたのだろう。肩がガチガチになっていた。大きく息を吸って吐くと、ようやく空気が肺に入ってきたような気がした。「あの……最近嫌がらせを受けていて……」「嫌がらせですね」 警察官がメモを取った。「はい。おそらく同一人物だと思うんですが、頼んでいないデリバリーや荷物が届いたり、この前はポストの郵便物を破られたりしました。それから今日は――」
Onlyé for youの発売まで、あと十日となった。 グロウセオリーのECサイトでカウントダウンが始まり、それに伴って、期待の声がSNSで広がった。 Onlyé for youは、このECサイトでしか購入できない。これだけ発売前から評判がよければ、きっと発売直後の売り上げも好調だろう。サーバーがダウンしないように、システム管理には依頼してある。 販売初日の売り上げを伸ばすため、澪はここ数日、ダーマコードに通い、仁と真壁との打ち合わせを繰り返している。既存顧客も新規顧客も喜ぶものを考えているのだが、なかなかいいアイデアが出てこない。「初回限定で容量を十パーセント増量とかはどうでしょう?」 澪が言うと、仁が首を横に振った。「いい考えだと思うんですが、セミオーダー商品ですから、初回は少量での購入をおすすめしたいです。AI診断も完璧ではありませんから、肌に合うかどうかわかりませんし」「確かにおっしゃるとおりですよね」 澪はペンを置いた。「かといって、ノベルティ、というのはちょっとブランドイメージに合いませんよね」「うちのお客さま、ものが増えるのを喜ばない層ですからね」 真壁が腕を組む。「うーん……。シートパックをプレゼントするのはどうでしょうか?」「肌に合わなかったときに、Onlyéのせいにされます」 仁が即答した。真壁が「ですよねえ」と天井を仰ぐ。 アイデアは出てくるのに、これといったものにたどり着かない。三人とも頭を抱えてしまった。「少し、休憩しましょう」 仁が切り出した。時計を見ると、もう八時だった。昼から打ち合わせを始めて、もう七時間も経っている。時間が過ぎるのが早いのは、集中しているからだ。 澪は、ふうっと息を吐いた。それまでなにも感じなかったのに、急にお腹が減った。「飯でも行きます?」 真壁が伸びをしながら言った。「そうですね、軽く行きましょう。それか
直哉のメッセージを、澪は無視した。 開いてしまった時点で、既読はついている。それでも構わなかった。 既読がついたのに返事をしなかったことが、気に食わなかったのだろう。直哉はしつこくメッセージを送ってきた。テーブルの上でスマホが震えるたび、画面がぼんやりと光る。きっと短い文章をいくつも送り、こちらからの返信を促しているに違いない。 澪はもう、開かなかった。 洗い物をして、明日の資料に目を通して、シャワーを浴びた。そのあいだも、スマホは何度か震えた。 湯を止めると、部屋は静かだった。 髪を拭きながら戻ると、通知の数だけが増えていた。直哉はあきらめたらしかった。 知りたくないと言えば、嘘になる。 花音は本当に妊娠していたのか。あの婚約破棄は、なんのためだったのか。 けれど、それを確かめるということは、あのふたりの生活のなかに、もう一度足を踏み入れるということだ。 産院を調べ、日付を突き合わせ、嘘の証拠を集める。 そうして手に入れた答えを、澪はどうするつもりなのだろう。 直哉に渡すのだ。あの人が、花音を責めるための材料として。 そこまで考えて、腕にぞわりと鳥肌が立った。 澪の手元には、もう、やるべき手続きがある。 発信者情報開示請求の手続き。証拠として保全した怪文書のコピー。会社の法務担当者と弁護士への相談。 憎しみに時間を使わない。手続きに使う。 自分で決めたことを、こんなに早く試されるとは思わなかった。 澪はスマホを手に取り、直哉とのトーク画面を開いた。 返信欄には触れない。代わりに、画面を上から順にスクリーンショットで撮っていく。 証拠は残す。返事はしない。 撮り終えて、スマホを裏返した。 これでいい。 これは、あの人たちの問題で、澪の問題ではないのだから。*
ポストを荒らしていたのは、小柄な女性。 お腹が膨らんでいるように見えた。 管理会社の言葉が、一晩中頭の中を回っていた。 やっぱり、花音? いや、まだ確証はない。防犯カメラの映像を見せてもらったわけではないのだ。 もしかしたら、別の人物かもしれない。確かな証拠がないのに、花音を責めても仕方がない。 相変わらず、会社にも怪文書が毎日のように送られてくる。 しかし、その内容は花音しか知らないものだった。「朝倉澪は大学受験に失敗した落ちこぼれだ」「朝倉澪は男運がなく、いつも振られている」 小学生じみた内容なのだが、これは花音しか知らない。 大学受験に関しても、失敗したというより、本当に行きたかった大学に学力が及ばず、泣く泣く志望校のランクを下げたのだ。下げた先の大学には合格できたが、本来行きたかった大学ではなかった。その意味では、失敗したと言える。 それでもランクの高い大学だったので、同級生からは羨望の眼差しを向けられた。けれど花音には、本当に行きたかった大学のことも、志望を変えた理由も伝えていた。 親友だと思っていたからだ。 合格発表の日、澪は花音にだけ電話をかけた。 合格したのに澪が泣いている理由を、花音だけは笑わずに聞いてくれた。「澪はすごいよ」と言ってくれた花音の声を、今でも覚えている。 その電話の内容が、いま、コピー用紙に印刷されて会社に届いている。 それに、男運がないことについても同様だ。 今まで付き合った人からは、ことごとく別れを切り出されている。人数は少ないが、確かな事実だった。しかも、最後に付き合った直哉も、最悪の形で澪に別れを切り出したのだ。 やっぱり、花音か。 それにしても、なぜ今さらこんなことをするのかがわからない。 澪からすべてを奪ったのに、まだ足りないというのだろうか。 そういえば、花音は今、妊娠してどれくらいなのだろうか。 澪は指を折った。